先月11月9日にデュッセルドルフの州立美術館へ行ってきました。偶然にもその日は歴史的な日。恥ずかしながら全く知らなかったのですが、市内で追悼碑に遭遇し、後でその歴史について調べましたので少し書いておこうと思います。
<目次>
K20からK21へ
K20を見終わった私は歩いて15分ほどのK21へ向かいました。無料のシャトルバスもあるということでしたが、どこかでお昼を食べようと思ったので徒歩で移動することに。
両館の位置関係はこんな感じです。
Kasernenstrasseにお花
歩いていると、1つの碑の前にたくさんの花が手向けられていました。11月の曇り空の下で一際目立って見えます。
ちょうど一人の青年がろうそくに火を灯そうとしており、私はその後ろで静かに見ていました。
ドイツ人青年との会話
その青年と少し話したところ、11月9日にここに昔建っていたシナゴーグが襲撃されて、そのことを忘れないために自分たちはこうして追悼をしているのだと言っていました。
”Rassenwahn”という単語の意味がわからなかったので、彼に聞くと、なかなか英語では説明しづらそうでした。「民族浄化」のことかなと思って、それをスマホでドイツ語に変換して見せると(Rassenwahnは出てきませんでしたが)、彼はその通りだと言っていました。
私がドレスデン在住だと言うと少し驚いたようでしたが、ドレスデンの右傾化の動きについて少し言及すると、またこのようなことが再び起こらないようにしなくては、と静かに答えてくれました。その短い会話の後で私達はお互いに挨拶をして別れました。
水晶の夜について
11月9日はベルリンの壁が崩壊した記念すべき日ですが、遡ること51年、1938年の11月9日はユダヤ人に対する暴動・迫害が行われた日でした。
少し石碑の碑文と内容が異なるところもありますが、Kasernenstrasseにあったシナゴーグについての歴史が見つかりました↓
Archive - north-rhine-westphalia - Duesseldorf
水晶の夜は英語でPogrom night、ドイツ語でKristallnachtと言います。暴動で壊されたガラスがキラキラと瞬いて見えたことからそう呼ばれるようになったそう。Pogromとはユダヤ人大虐殺のことを指す言葉です。
暴動の引き金となったのは、ユダヤ人青年がユダヤ人の境遇の悲惨さを訴えるためにドイツ大使館員を暗殺したことでした。それに対する報復としてすぐさま各地で反ユダヤ主義の暴動が起き、ナチス政権はそれを事前に察知できていたにも関わらず傍観したと言われています。
まとめ
・1938年11月9日、10日にかけて各地で反ユダヤ主義の暴動が起きた
・Kasernenstrasseにはその暴動で襲撃されたシナゴーグと被害者を追悼する碑が存在する
・ドイツ人の若者は今もその悲惨な出来事を忘れないために11月9日に追悼を捧げている
K20からK21へ移動する間にこの追悼碑は建っています。もし時間に余裕があったら15分歩いてみてください。ユダヤ人の悲惨な歴史を少しだけ知ることができます。なお、Mühlenstraße にメモリアルセンターがあるそうなので、興味のある方はぜひ訪れてみてください。